学校給食時 『いただきます』を子供に強要するな!と、苦情を言ってくる親がいるという話を聞きました。
親が学校にお金を払って食べさせているのだから
学校が子供に 『いただきます』を言わせるのはおかしいと言うのだ。
『いただきます』は 誰に対して?言っているのだろう
お金を払う親に言っているのか?学校の先生に言っているか?校長に言っているのか?
お米や麦を作ってくれる人 魚を捕ってくれる人 一番近くではそれらを調理してくれる人
自分の目の前に食物を運んでくれる労働者に対して 感謝の気持ちを表し『いただきます』を 言うのだ
そう私は親に教わった
常識的に考えると普通はこう考えるのでは無いかと思う
一年掛けて 愛情を込めて作物を作る 人の心に
身体をはって 魚を取りに行ってくれる 人の心に
そう言う 目の当たりにはしていない苦労を 労える心って大事だと思う
そう考えられる力が 想像力 そして想像力は心を豊かにする力だと思う
金を払えばいいだろう では 機械的すぎる
心が殺伐とする
そして 他人の苦労を労えない輩に限って 自分の苦労を強調したり 感謝の言葉を強要するものだ
さて それなら自分はどうだろう?
私達夫婦はどうだろう?
夫婦になった時点で 妻は夫の扶養になる
社会(国民)保険 厚生年金 自動的に社会的保証が夫との共通のものとして加入される(そうでない人もいますけど)
そういう目に見えない保証に感謝出来ていたかな?
夫婦なんだから当たり前 お金を持ってきて家族を養うのは当たり前?
そして夫側の方も 俺が働いて食わしてやるんだから 感謝されて当たり前!
妻は家族の為に家事をするのは当たり前?
これでは 『お金を払っているんだから「いただきます」を言わせるなんておかしい』と 言っているのとあまり変わらないのでは?
上記はちょっと極端かもしれませんが 少なくともこう思ったこともある
そう 思われていた事もある
近くになりすぎると「ありがとう」とか「ご免なさい」とか 素直に出ないときもあるけれど
少し 練習してみよう
私なんかは 喧嘩をしたとき 自分が悪いと分かっていても謝らない所があるので そんな困ったちゃんを受け入れてくれる 主人に感謝!感謝!
嫌な相棒との仕事だけれど 家族のために働いてくれて 感謝 感謝!
心が殺伐としないために 自分の為に 「ありがとう」を言えるように
心が潤うということは 自分で自分に水をあげる事でしか癒されない
他人から奪い取るものじゃない
心が枯渇した人間は いつまでたっても人から奪おうとして 潤う事が出来ない 自分の心の潤い方を知らない 知ろうともしない